「遊兎〈ゆうと〉、遊兎……」
「……」
耳元で声が聞こえる。
「遊兎、大丈夫か遊兎。目を覚ますのだ」
「……」
悠人〈ゆうと〉が目を開けると、間近に沙耶〈さや〉の顔があった。
「沙耶、か……」
「遊兎……泣いているのか」
「え……」
頬に涙が伝っていた。
白く細い指で、沙耶がその涙を拭う。「哀しい夢でも見たか」
そう言って頭を優しく抱きしめる。
「いいんだぞ遊兎。哀しい時は、泣いてもいいんだぞ」
「沙耶……」
また悠人の目に、涙が溢れてきた。
「……哀しい夢、だった……」
「そうか……」
「まだガキだったんだ……そんな言葉で誤魔化せたら、どんなに楽か……」
「遊兎……」
「やり直せるなら、もう一度あの時に……」
「いいのだ……分かってる、分かってるぞ、遊兎……」
沙耶の声、甘い香りに。
心が少しずつ落ち着いていく。「……もう大丈夫だ。ありがとな、沙耶…………ん?」
悠人の頭が現実にシフトした。
「……沙耶。ところでお前は、ここで何をしている」
「些細なことは気にするな。私の腕の中で、傷ついた心を癒すがよい」
悠人の顔に、肌の感触が伝わってきた。
沙耶の生の胸だった。
「うぎゃああああああああっ!」
悠人が飛び跳ねた。見ると沙耶は、全裸の上から昨日プレゼントしたダウンジャケットを着込んでいた。
「な、な、な、沙耶! お前、その格好は!」
「ん? ああこれか。いや、あまりにも着心地がよかったのでな、昨夜はこのまま眠ってしまったのだ。
遊兎、改めて礼を言うぞ。どうだ、似合うか?」上機嫌な沙耶が悠人の目の前で立ち上がり、くるりと回った。裸エプロンの妄想はしたことがあったが、裸ジャケッ
「……」「気がついたかい、少年」「え……」 見知らぬ女が、そう言って自分を見つめていた。 * * * 悠人〈ゆうと〉がぼんやりとした頭で、状況を把握しようとする。 自分の部屋の天井が見える。と言うことは、ここは俺の家だ。 左手が動かしづらい。その上にあるものを見て納得する。どうやら点滴をされているようだった。 そうだ。俺、急に吐き気がして……トイレで吐いて……「小鳥は!」「君の隣だよ」 女がそう言った。 頭を動かすと、自分の手を握って眠る小鳥が目に入った。悠人がほっとした様子で微笑む。 小鳥の頬には、涙の跡が幾筋も残っていた。 まだぼんやりしていた。目が回り、息が熱い。「タオルを変えよう」 女がそう言って額のタオルを取り、台所に歩いていった。「……すいません、その……お世話になったみたいで……」「気にすることはない。これも何かの縁だろう」 タオルを絞って戻ってきた女が、悠人の額にそっと乗せた。「あの、それで……」「私は深雪、木之本深雪〈きのもと・みゆき〉だ。ここの下の住人だ」 そう言われて悠人は、見覚えがあることを思い出した。何度かエレベーターで一緒になっていた。「しかし驚いたよ。エレベーターに乗ろうとしたら、中に少女がいた。見たら小鳥くんだ。ああ、小鳥くんとは以前、そこの堤防で会ってるんだ。 小鳥くん、様子が尋常じゃなかった。泣きながら私の顔を見て、しがみついてきた。混乱している小鳥くんに困っていたら、小鳥くんの後にいた金髪少女が説明をしてくれた。沙耶〈さや〉くん……だったね。彼女の話で、君が嘔吐し
小百合〈さゆり〉がサークルの先輩、柴田和樹〈しばた・かずき〉と交際を始めてから、5年の歳月が流れていた。 悠人〈ゆうと〉は大学卒業後、物作りに興味があったこと、必要以上に人と関わる必要がないこと、自分の時間を確保できること、そういった理由から、自宅から電車で一時間ほどのところにある金型工場に就職していた。 毎日が平凡。 しかし悠人にとって、それこそが望んでいたものだった。職場で鉄の塊と向き合い、僅かな寸法との妥協なき戦いを楽しみながら、プライベートで自分の世界を更に深く追求していった。 小百合とはあれ以来、ほとんど会うことがなかった。 そして風の噂で、大学を中退し結婚したことを知った。 悠人は今なお、あの日から前に進むことが出来ずにいた。 一番近くにいた、一番大切だった存在。それが一瞬にして、手の中からこぼれ落ちていった。あの時に出なかった勇気が、全てを変えてしまった。 自分にとって、小百合は大切な家族。家族なら離れ離れになることはない、そう思っていた。しかしそれは、余りに稚拙な考えだった。自分の愛した水瀬小百合は今、柴田小百合として自分の知らない人生を歩んでいる。 大切なものを失った悠人の傷は癒えず、これまで以上に人との関わりを避けるようになっていった。 人を大切に思えば思うほど、別れが来た時に心が壊れそうになる。その恐怖が彼を支配していた。 ならば初めから好きにならなければいい。そうすればもう二度と、あのような思いをすることはない。大丈夫、俺にはゲームもあれば、小説やアニメもある。空を見上げれば星もある。それらは決して、自分の前から消えたりしない。それだけで十分だ、そう思っていた。 時折感じる空虚感をごまかしながら、悠人は日々を生きていた。 * * * ある日。 帰宅ラッシュの満員電車から開放され、自宅へと足を運ぶ悠人の目に、鮮やかな夕焼けが映った。「きれいだな……」 自然と足が、近所の公園へと向いた。 ブランコに腰
沙耶〈さや〉の引っ越しから二週間が過ぎ、暦も3月から4月へと変わっていた。 新生活の季節。 悠人〈ゆうと〉は小鳥〈ことり〉の入学式に、保護者として同伴した。 小鳥の大学は、悠人の家から電車とバスで一時間ほどのところにある。 キャンパスで楽しそうに話している学生たちを見て、ここなら小鳥も楽しくやっていけるだろう、悠人はそう思った。 小百合〈さゆり〉は入学式にやってこなかった。 一人娘の入学式。顔を出すと思っていたのだが、小百合はなぜか一年前に携帯を解約していて、連絡が取れずにいた。 学生時代、悠人に携帯を持つよう言っていた彼女の心境の変化に、相変わらずマイペースなやつだなと悠人は思った。 小鳥の話だと、先日公衆電話から連絡があり、陸奥〈みちのく〉女一人旅を延長する、楽しくやってますと言っていたとのことだった。 初恋の相手である自分が悠人と会えば、きっと悠人の心は乱れてしまう。娘の恋を応援する親として、今悠人と会う訳にはいかない。ラスボスは最後に登場するものだから、との意味深なメッセージに、小百合らしいと苦笑した。 * * * 小鳥は沙耶と共に、バイトに勤しんでいた。沙耶と一緒に働くようになってから、小鳥は今まで以上に楽しい様子だった。 沙耶はと言えば、接客の方は相変わらずだが、バイトを始めて三日ほど経った頃には、商品の名前と値段、場所全てを記憶していた。 そして一日の店の売り上げ、売れ筋の商品や売れ残りなどをチェックし、店長山本に店の大幅なディスプレイ変更を申し出た。 最初は首をかしげていた山本だったが、理路整然とした客の流れや購買心理・商品の見せ方の説明に聞き入るようになり、その申し出に乗った。 翌日から、商品の売れ具合が激変した。これまで売れていた商品は勿論、売れなかった商品も次々と売れ、売り上げが一気に上がっていった。 更に沙耶は、客一人あたりの単価を上げる次の策として、商品によって、セットで買うと翌日から使える商品券の発行を提案した。例えば弁当と一緒にお茶を買うと50円の商品券
小鳥〈ことり〉は彼女に、昨晩から自分の身に起こっている変化を話した。 鉛筆を走らせながら、その女は黙って聞いていた。 * * *「なるほど……」 鉛筆を止め、コーヒーをひと口飲むと、その女は小鳥の顔を優しく見つめた。「可憐な乙女、悩むことはない。君は今、本当の恋をしてるんだよ」「本当の……恋……」「君は今まで、その悠兄〈ゆうにい〉ちゃんなる男性に憧れ、慕っていた。安らぎを感じていた。それは恐らく、家族から得られる安らぎに近い。君は彼を男としてでなく、兄や父に近い感情で見てきたんだと思う」「家族……」「しかし今、君は彼のことを考えると苦しくなる。きっと君は、彼を一人の男として意識し始めているんだよ」「人を愛するって、苦しいことなんですか?」「苦しみもある、と言った方がいいね。その人を思い浮かべるだけで、胸が締め付けられそうになる。でもそれは、幸せ故の苦しさなんだ」「……よく分かりません」「失いたくない、もっと自分を見てほしい。意識してほしい、愛してほしい。相手に求めるその気持ちは、自分だけではどうにもならない。相手の気持ちに入ることは出来ないからね。だから苦しむし、不安にもなる。 でもその苦しみがあるからこそ、相手をいたわり、大切にしようとする気持ちが育まれていく。お互いがそういう気持ちになったらどうだい? 最高の関係が築けると思わないかい?」「そう、ですね……はい、思います」「君は本当に素直だな。その素直な気持ち、大切にしてほしいと切に願うよ。君のような人種、今じゃ絶滅危惧種だからね」「褒められてます?」「ああ、褒めてるとも。で、だ。君のもうひとつの疑問も、今の話から答えが導き出される。 乙女。君は悠兄ちゃんを、男として意識するようになった。愛してほし
「遊兎〈ゆうと〉、遊兎……」「……」 耳元で声が聞こえる。「遊兎、大丈夫か遊兎。目を覚ますのだ」「……」 悠人〈ゆうと〉が目を開けると、間近に沙耶〈さや〉の顔があった。「沙耶、か……」「遊兎……泣いているのか」「え……」 頬に涙が伝っていた。 白く細い指で、沙耶がその涙を拭う。「哀しい夢でも見たか」 そう言って頭を優しく抱きしめる。「いいんだぞ遊兎。哀しい時は、泣いてもいいんだぞ」「沙耶……」 また悠人の目に、涙が溢れてきた。「……哀しい夢、だった……」「そうか……」「まだガキだったんだ……そんな言葉で誤魔化せたら、どんなに楽か……」「遊兎……」「やり直せるなら、もう一度あの時に……」「いいのだ……分かってる、分かってるぞ、遊兎……」 沙耶の声、甘い香りに。 心が少しずつ落ち着いていく。「……もう大丈夫だ。ありがとな、沙耶…………ん?」 悠人の頭が現実にシフトした。「……沙耶。ところでお前は、ここで何をしている」「些細なことは気にするな。私の腕の中で、傷ついた心を癒すがよい」 悠人の顔に、肌の感触が伝わってきた。 沙耶の生の胸だった。「うぎゃああああああああっ!」 悠人が飛び跳ねた。見ると沙耶は、全裸の上から昨日プレゼントしたダウンジャケットを着込んでいた。「な、な、な、沙耶! お前、その格好は!」「ん? ああこれか。いや、あまりにも着心地がよかったのでな、昨夜はこのまま眠ってしまったのだ。 遊兎、改めて礼を言うぞ。どうだ、似合うか?」 上機嫌な沙耶が悠人の目の前で立ち上がり、くるりと回った。裸エプロンの妄想はしたことがあったが、裸ジャケッ
半月が過ぎた。 あの後すぐ、小百合〈さゆり〉はサークルの合宿に向かった。 この間悠人〈ゆうと〉は一人、自問自答を繰り返していた。 自分にとって、小百合とは何なのか。 あの時。あまりに唐突だったこともあり、彼自身動揺してまともに思考が働かなかった。 しかしこの半月。 小百合のいないこの街で一人。結論を出すには十分な時間だった。 * * *(俺にとって、小百合は大切な家族だ。決して失いたくない存在だ。 しかし、それだけなのか? いや。 違う。 俺は自分の気持ちに気付かない振りをして、避け続けてきたんだ。 恋愛をする恐怖に怯え、自分の心をだまし続けてきたんだ) 小百合のいない半月が、果てしなく長く感じられた。 あの時見せた小百合の涙。言葉にこそしなかったが、自分を想ってくれる小百合の心。そう思うと、胸がしめつけられそうになった。 * * * 物心ついた時から、ずっと一緒だった。 初めは頼れる姉のような存在だった。何をしても自分より出来る、自慢の姉だった。 誰よりも強い人。そう思い、憧れていた。 しかし。 自分のいじめられている現場を見られたあの日。夕焼けに染まる帰り道で、初めて見た彼女の涙に。本当は、こんなに儚くもろい人なんだ、そう感じた。 あの時。俺が彼女を支え、守っていこう、そう心に誓った。 中学に入ると、いつの間にか自分の方が大きくなっていた。 小百合はスポーツ万能でソフトボール部キャプテン。中学最後の試合で勝った時、ウイニングボールをプレゼントしてくれた。その時の彼女の笑顔がまぶしすぎて、思わず目を背けてしまった。 高校時代。 練習中に脱水症状で倒れた時。拒む彼女を無理やりおぶって家まで送った。 今まで自分より頑丈だと思っていたのに。実は自分よりも遥かに小さく、か細い人なんだと知った。大切に、大切にしないと壊れてしまうん
その夜。 悠人〈ゆうと〉は河原で、小百合〈さゆり〉を待っていた。 * * * 大学に入ってもうすぐ一年になる。この一年、二人はこれまでにないぐらいすれ違った日々を送っていた。 悠人は大学に入ってからも、自分のペースの生活を続けていた。 年間に読む小説の冊数を決め、攻略するゲームの本数を決め、映画館に行く回数を決め。そしてアニメは基本全てチェックする。 月に一度プラネタリウムに行って星と触れあい、あとは健康維持の為、ウオーキングを始めていた。 どちらにしても一般の生徒とは一線を画し、我が道を進んでいた。 人と接触することで生じる責務や、関係が壊れることへの不安はこの歳になっても拭われることなく、彼は以前にも増して自分の世界へと入っていった。 一方小百合はサークルとバイトに明け暮れる、忙しい毎日を過ごしていた。 * * *「ごめん悠人、遅くなっちゃった」「遅いぞ小百合」「ごめんごめん、出る前に先輩から電話がかかってきちゃって。ふうっ、走ってきたから疲れちゃったよ」「相変わらず忙しいみたいだな」「まぁ……ね。はいこれ」 小百合が差し出した缶コーヒーを受け取り、ひと口飲んだ。「それより悠人、いい加減携帯持ったら? いまどき連絡先が家だけなんて、ほんと不便なんだから」「俺はいいんだよ。携帯なんか持って、どこにいても捕まっちまう生活なんて、考えただけでもぞっとする」「あったらあったで便利だよ」「大体俺に連絡してくるやつなんて、親父と母さん、それとお前ぐらいなんだから。それに基本、俺はいつも家にいる」「そうなんだけど……ね」「携帯の話で呼んだんじゃないよな。何かあったのか、こんな時間に呼び出しなんて」「……」 急に小百合が黙り込んだ。 変
その後一時間ほど沙耶〈さや〉の家で過ごし、悠人〈ゆうと〉と小鳥〈ことり〉は家に戻った。 弥生〈やよい〉は半べその沙耶〈さや〉にもう少し付き合います、そう言って残っていた。「サーヤ、喜んでたね」 風呂から上がった小鳥が、タオルで髪を拭きながら微笑む。「あそこまで感動してくれたら、プレゼントしたかいもあるよな」 春アニメをパソコンでチェックしながら、悠人が答える。「よいしょっ」 タオルを首にかけ、トマトジュース片手の小鳥が悠人の隣に座った。「面白そうなアニメある?」「そうだな。ジェルイヴを超えるものがあるかどうか」「もうすぐ終わっちゃうんだよね。何か寂しいよ」「この時期、来シーズンのチェックをするのも楽しいんだけど、それ以上に、今から順に最終回が来るのが寂しい時期でもあるんだよな。特にお気に入りが多い時は」「複雑だよね」「ところで小鳥。どさくさに紛れて密着するの、やめてくれないか」「えー、これぐらいいいじゃない。スキンシップは争いをこの世からなくす、最大の妙薬なんだよ」「小鳥お前、ノーブラだろ。ちょっとは警戒しろ」「襲ってくれてもいいんだよ」「なんでテンション上がるんだよ」「お風呂上りの18歳。ご主人様さえその気なら、いつでも純潔を捧げる覚悟は出来てます」「わたったったっ、煙草煙草」 抱きついてきた小鳥を振りほどき、悠人がくわえていた煙草を慌ててもみ消した。「お前が来てから何回目だよ、このパターン」「もおー、悠兄〈ゆうにい〉ちゃん、なんで小鳥の誘惑にのってくれないかなぁ」「ノリとか誘惑でなびかない主義なんだよ、俺は」「わっ、悠兄ちゃん純情!」「からかうな」 そう言って笑いながら、悠人がリュックから袋を取り出した。「小鳥にこれを」「え?」「堤防で渡そうと思ってたんだけどな」
インターホンがなった。「……」 パソコンの電源を入れたばかりの沙耶〈さや〉がモニターを覗くと、悠人〈ゆうと〉の姿が見えた。 笑みを漏らした沙耶が玄関に走り、ドアを開ける。 パンッ! パパンッ! 沙耶の頭上に、クラッカーの音が鳴り響く。見ると悠人に小鳥〈ことり〉、そして弥生〈やよい〉がそこにいた。 三人とも、クラッカーを手に笑顔だ。「サーヤ、引越し・アルバイト決定、おめでとう!」 小鳥の掛け声と同時に、もう一度クラッカーが鳴った。 * * *「ななな、なんだこの騒ぎは」 気が動転した沙耶が、声にならない声を出す。「お前の歓迎会だよ」 悠人が笑顔で沙耶の頭を撫でる。「歓迎会……」「そうです、クイーン・ロリータ。我々庶民は、こういった出会いを大切にしているのです。私も不本意ではありますが、今日は一時休戦ということで、お祝いに馳せ参じました」「に、肉襦袢〈にくじゅばん〉まで……そうか、お前たち……私の引越しを祝ってくれるというのか……」「もう晩飯は食ってしまったから、まぁティーパーティーってとこだな」「サーヤ、中に入ってもいい? ちょっと寒いかも」「あ、ああ、すまない。私としたことが、客人を立たせたままにしてしまった。さあ、入ってくれ」「おじゃましまーす!」 三人がわいわいと中に入る。「怪奇絶壁幼女、じゃなかった北條沙耶殿。キッチン借りますよ」「う、うむ、好きに使ってくれミートボール……ではなく川嶋弥生」「二人が名前で呼び合うの、なんか新鮮だね」「まあ、今日は休戦だからな」 小鳥と弥生が、キ